人形論

人形に元々魂は宿っていない。しかし人間が愛情を込めるとその人形に愛魂が乗り移り、魂が宿るのである。
そう、これは人間にも当てはめることができる。人間が誕生した瞬間には魂・命は宿っていない。赤ちゃんは生まれたとき大声で泣く。ならば命は備わっているじゃないか、そう思うかもしれない。しかしそれは違う。生まれた直後の赤ちゃんの表情、そして泣き声は全て人形的感覚と同じである。
人形はそれぞれ笑っている人形、無表情な人形など色々あるが、生後間もない赤ちゃんの表情はこの人形と同じように始めから決まっているもので、命・魂が備わっているわけではない。
また赤ちゃんの泣き声も同じである。人形にも電源を入れると喋ったりするものがあるのと同じように、この赤ちゃんの泣き声も始めから決まって存在するものなのである。これは機械的感覚と言ったほうが正しいかも知れない。つまり生後間もない人間に真の命・魂は備わっておらず、人形的表情・そして機械的に動いているだけなのだ。ではどうして成長するに従って感情や意思表現が出来るようになっていくのか。これは知能が発達するからではない。両親や周囲の人間による愛魂が注がれ続けることによって起こるものなのである。これは冒頭に書いた人形への愛魂と同じ原理である。

ではここから「死」について。人形は人間から不要とされたとき、捨てられる。不要になったということは愛魂が注がれなくなったということであり、人形から魂は消え失せてしまう。つまりそのような状況下に置かれた人形は「死」の状態なわけだ。これは人間にも当てはめることができる。
人間はなぜ死ぬのか。それは人形と同じように、やがて不要とされる日がやってくるからだ。いわば人間が不要な人形を捨てるのと同じように、世間から不要とされた人間は世間から「捨てられた」状態になる。
そう、人間も愛情・愛魂を受けなくなったとき、死ぬのである。
では愛魂を注ぎ続ければ不死でいられるのか? そうではない。例えば100歳の老人がいるとする。その老人が110歳、120歳と年老いていくうちに、その老人の周囲の人間(親族等)、いわばその老人に愛魂を注ぐ人間も年老いていくわけであり、仮にそれらの人間が老人に愛魂を注ぎ続けたとしても周囲の人間が先に死んでしまう可能性もある。周囲の人間が死んでしまったとき、その老人は誰からも愛魂を注がれなくなる=やがて死ぬ のである。
だが、周囲の人間たちがお互いに愛魂を注ぎ合い、また、その老人にも愛魂を注ぎ続ければ全員が不死でいられる…かもしれない。